カテゴリ:博士の思草( 95 )

僕の町

子どもの頃、自分が心地いいスペースを町のあちこちに持ち、
その点と点を線で結ぶように縦横無尽に駆け回った。
そうやって、自分の居場所を創造し生産する日々に忙しかった。

公園の木によじ登りそこを監視塔にしたり、どぶ川に沿って秘密の道を発見したり、
スーパーの試食コーナーで小腹を満たし、マンションの屋上で星を眺める。
いつだって町は僕のものだった。いや、僕そのものだった。

大人になるにつれて、町と僕がどんどんと切り離されていくのを実感していた。
それは「失う」という感じのものではなく、「隠されている」ようだった。

教育や社会、または常識といった類のものが分厚い目隠しとなり
あっという間に覆い隠されると、見えていた世界が「見えないこと」にされた。
それはもう、あの頃の僕の町ではなかった。

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僕自身ではない町に生きることは、
本当にこの町に生きていると言えるのだろうか。

いまもっとも急務としなければいけないこと、
それは僕の目の前にある目隠しを一枚一枚はぎ取り、
その先にある「僕の町」を取り戻すことだ。
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by machikusa | 2015-06-11 22:40 | 博士の思草

「創職人100選」に掲載されました。

以前からお世話になっているライターの白水育世さんが主宰されている
WEBサイト「創職人100選」に、まちくさプロジェクトを取り上げていただきました。

およそ2日におよぶ取材のなかで丁寧に紡がれた言葉は、
まちくさの歴史となって一つの短編映画のように形づくられていきました。

2007年よりスタートしたまちくさのプロジェクトは、
小さな船でふらふらと大海原へ旅立つ船出のようでしたが、
その旅のなかでたくさんの素敵な仲間たちと出会い、支えられ、
思いを共有するなかで自分は活かされてきたのだと思います。

まちくさの船はまだまだ終わりのない旅をつづけます。
僕はこれから先、いつかよぼよぼのおじいさんになっても
「まちくさ博士」という存在でいつづけるつもりです。

支離滅裂な言葉にも耳を傾け、
丁寧に一語一句を汲み上げていただいた白水さん。
本当にありがとうございました。

「創職人100選」まちくさ思草家 重本 晋平 ーまちくさを一つの通路に、豊かな世界へ-
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by machikusa | 2015-04-24 22:35 | 博士の思草

まちくさという磁力

まちくさを探す行為にはまず「町に出る」ことが前提となる。
町に出る。それは、私的でプライベートな空間から
社会や公の場に足を踏み出すということを意味している。

「町に出る」という行為は誰もが日常的に行っていることであり、
通勤通学であれ、買い物であれ、何らかの目的を持って人は町へ繰り出す。
そしてそれはごく当たり前のことで、日々の生活に組み込まれた
一連の流れのように人は移動していく。

では、まちくさを探すことを目的に「町に出る」とどうなるか。

人はまちくさを探すことで、いつもは「過ぎ去る」だけの町の路地に「留まる」ことを始める。
しかも見ているものが路肩や排水溝など路の脇や隙間にあるものだから、
それを探す人の姿は滑稽で誰が見ても不審で怪しいものになる。(さらに平日の昼間なら不審者上級者)

そんな怪しい姿を見て声をかけてくるのが、町の住人であり生活者のおばちゃん達である。
はじめはおばちゃんも不審な目をこちらに向けているだけだが、
やがてたまらず話しかけてくる「何してはんの?」
そこで間髪入れず「この草を見てるんです。」と答える。

そこからはもう終始おばちゃんペースで話が盛り上がって行く。
ユーモアのある冗談を交えながら、だいたい最後は草なんて関係ない
世間話に花が咲き、ご親切に「あっちにおもろい草あるで!」と草の道案内までしてくれる。
こちらはまちくさを探すことで時間の余白を持ち、
おばちゃんも正午の余白の時間を持てあましている。

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普段、私たちは時間に縛られて生きていることで人と人の交わりに知らず知らずに
制限をかけているように思う。ただ、その時間の縄から解放されたとたんに、
こんなにも見ず知らずの人は仲良くなれるのか。

ゆるゆるになった時間の縄の間に漂う空間は、ある磁力を放っていて、
それに反応するもの(磁石)どうしをごく自然なかたちで結び合わせてくれるようだ。
「まちくさを探す」という行為は、その磁力と対になるものなのかもしれない。

まちくさを探すなかで出会う人とその関係。そこで生まれる会話。
その間にあるものが何なのか。その隙間を見つめていきたい。
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by machikusa | 2015-04-03 19:51 | 博士の思草

まちくさという言語

フランス人学校の子供たちが名付けてくれたまちくさ。
そのなかで特に印象的だったのが「ミルフィーユ」と命名されたまちくさだった。

石垣の上に生い茂った緑の葉が重なり、日に照らされたところと
それ以上に濃く影を落とす緑が画面全体に広がっている。

日本でいう洋菓子のミルフィーユをイメージしていた私は子どもに尋ねる。
「なぜミルフィーユなの?」
その子の答えは
「葉っぱがたくさん重なって生えているところが線香花火みたいで、
それがミルフィーユだと思ったから。」

あとからわかったのは、ミルフィーユというのは元々フランス語で、
Millesが「千の、たくさんの」という意味で、Feuillesが「葉、紙切れ」の意味。
mille-feuilleは「千枚ぐらいのたくさんの葉」が重なったという意味になるらしい。

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日本人が持つ他国の言葉に対する言語感、そして他国の言葉が本来持っている意味。
その間には少し距離があいているように思う。
その間を行き来できるのが「まちくさ」という視点から生まれる体験なのかもしれない。
それを「まちくさ語」と名付けよう。まちくさ語を通してなら、
どんな国の人どうしでも容易にコミニケーションをとることが出来る。
なぜなら、まちくさという共通の価値観を持つことで、互いにその方向を向いていけるから。

近年、特に日本の言語はますます複雑に入り混じり、それが日本の特異な文化のひとつになっている。
まちくさという言語感は、それとはまた別の世界に位置するものなのかもしれない。

そんな可能性について、より深くへと探求していきたい。
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by machikusa | 2015-03-23 21:38 | 博士の思草

まちくさという視点の制約

旅の途中「まちくさ」という視点を持って町を歩くなかで感じることがある。
それは、初めて訪れる町にもかかわらず、目にみえる景色すべてが懐かしく、
歩く道がいつも自分の住む町の路地にある一筋のように思えてしかたがない。

それは「まちくさ」という視点がある一定の制約を持ち、
自分はその制約に沿って町をみているからなのだろう。
言ってみれば、五感を通して外界から受け取る刺激や情報を制限し、
ほぼ無意識的に選択・選別している状態なのだ。
いや、選択させられているというほうが正確かもしれない。

例えば、着ぐるみを被り町を歩いていると想像してみよう。
着ぐるみは動きにくい、どうしても動きはぎこちなく、歩くスピードは
いつもの半歩以上遅くなる。スローモーションのように動く。
また、その着ぐるみに小さく空いた穴から覗く外界の景色はどうだろう。
その小さな穴2つが唯一、外界と自分とをかろうじて繋ぎとめている。
その穴からみえる世界は、日常とは少しずれた別の世界のように映るだろう。

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このように、「まちくさ」の視点を持つということは
「まちくさ」という着ぐるみを被っている、と言えばいいすぎだろうか。

ただ、この「まちくさ的」視点を、旅先だけでなく日常のさまざまな場面に転用することで、
誰もがその一つの制約に寄り添いながら、自分が現実だと思いこんでいる世界に
もう一つの分かれ道を見いだし、そこを悠々と散歩することができるはずだ。

視点の制約こそが、凝り固まった日常や現実の壁を越えてゆくヒントになる。
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by machikusa | 2015-03-20 22:40 | 博士の思草

どんな隙間でも見てやるぞ

まちくさをさがして町を歩く時、
一歩一歩を確かめるように、町に入る。
路地へ、路地へ入っていく。
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それはまるで自分の持てるだけの
町を両手ですくいあげ、
その隅々までじっくりと見渡す様。

どんな隙間でも見てやるぞ、と。
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by machikusa | 2013-09-11 19:15 | 博士の思草

冒険の道

e0133891_17134356.jpg学校からの帰り道。

僕の足元にどこまでも続く道は
冒険のはじまり。

拾った枝を武器にして、
てんとう虫を仲間にし、
草むらなんか、かき分けろ。
溝があれば飛び込んで、
公園の木登って監視する。

ワルモノいないか見張ってる。

さあ行こう。
大きく足をふりあげて。
手のひらぐっと握りしめ。

どこまでも終わらない物語。
ぼくだけの冒険の道。
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by machikusa | 2013-07-11 17:26 | 博士の思草

ユーモアとまちくさ

数々の名曲を打ち出した作詞家であり、多彩な文筆家の阿久 悠氏が
何かの本でユーモアについて記述していた。

「ユーモアとは余裕」
「力が抜けて、野暮に力み返っていたことが馬鹿らしくなる一瞬」
「人と人の間に潤滑剤として役目を果たすもの」(文中より抜粋)

そして
「教育の場にもっとも必要だ」
とも書かれていた。

これだと思った。

まちくさは、「ユーモア」でありたい。
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by machikusa | 2013-06-21 22:36 | 博士の思草

小学校へ行くこと

ここ3年のうちに、小学校へのまちくさ出張授業を行う機会が増えてきた。
同じ小学校で、毎年3年生の授業の取り組みとしてさせていただいている。
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毎年のように思うことは、子どもたちのまっすぐな目と感性、
それが「まちくさ」の発想にぴったりとくる。

すごく特別なことをしているわけではないけれど、
子ども達が名付けたまちくさの名前に
それぞれの個性が垣間見えるのが嬉しい。

こういうのが、大切なんだよ。
と改めて気づかされる。

初年度に授業をした子ども達はもう5年生。
まちくさとともに子ども達の成長があるのもまた嬉しい。


まちくさ博士 重本晋平
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by machikusa | 2012-12-06 15:55 | 博士の思草

こどもとまちくさ

まちくさワークショップに参加する子ども達を観察してみる。

「どうやってまちくさを見つける?」
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道端にでた子ども達はもう無敵。
気づくとおもろいものをすぐ見つけて
「こんなんあるでー!」「こっち来てみー」
てな感じでおいてかれる。

まちくさもどんどん見つけてく、
かと思ったら猫じゃらしをブチブチ引っこ抜いて
それを大事そうに宝物みたいに抱えてる。

すでにまちくさどころじゃない。探検だ。

子ども達が見ている世界は、「遊び場」としての
町なのかもしれない。
見るもの触れるものすべてがその場で瞬間に
子ども達の創造となり楽しい世界へと広がっていく。

見つけることは、自由な世界に触れること。
子ども達から教わることを忘れないでいたい。
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by machikusa | 2012-10-01 22:48 | 博士の思草