まちくさを探す行為にはまず「町に出る」ことが前提となる。
町に出る。それは、私的でプライベートな空間から 社会や公の場に足を踏み出すということを意味している。 「町に出る」という行為は誰もが日常的に行っていることであり、 通勤通学であれ、買い物であれ、何らかの目的を持って人は町へ繰り出す。 そしてそれはごく当たり前のことで、日々の生活に組み込まれた 一連の流れのように人は移動していく。 では、まちくさを探すことを目的に「町に出る」とどうなるか。 人はまちくさを探すことで、いつもは「過ぎ去る」だけの町の路地に「留まる」ことを始める。 しかも見ているものが路肩や排水溝など路の脇や隙間にあるものだから、 それを探す人の姿は滑稽で誰が見ても不審で怪しいものになる。(さらに平日の昼間なら不審者上級者) そんな怪しい姿を見て声をかけてくるのが、町の住人であり生活者のおばちゃん達である。 はじめはおばちゃんも不審な目をこちらに向けているだけだが、 やがてたまらず話しかけてくる「何してはんの?」 そこで間髪入れず「この草を見てるんです。」と答える。 そこからはもう終始おばちゃんペースで話が盛り上がって行く。 ユーモアのある冗談を交えながら、だいたい最後は草なんて関係ない 世間話に花が咲き、ご親切に「あっちにおもろい草あるで!」と草の道案内までしてくれる。 こちらはまちくさを探すことで時間の余白を持ち、 おばちゃんも正午の余白の時間を持てあましている。 普段、私たちは時間に縛られて生きていることで人と人の交わりに知らず知らずに 制限をかけているように思う。ただ、その時間の縄から解放されたとたんに、 こんなにも見ず知らずの人は仲良くなれるのか。 ゆるゆるになった時間の縄の間に漂う空間は、ある磁力を放っていて、 それに反応するもの(磁石)どうしをごく自然なかたちで結び合わせてくれるようだ。 「まちくさを探す」という行為は、その磁力と対になるものなのかもしれない。 まちくさを探すなかで出会う人とその関係。そこで生まれる会話。 その間にあるものが何なのか。その隙間を見つめていきたい。 #
by machikusa
| 2015-04-03 19:51
| 博士の思草
フランス人学校の子供たちが名付けてくれたまちくさ。
そのなかで特に印象的だったのが「ミルフィーユ」と命名されたまちくさだった。 石垣の上に生い茂った緑の葉が重なり、日に照らされたところと それ以上に濃く影を落とす緑が画面全体に広がっている。 日本でいう洋菓子のミルフィーユをイメージしていた私は子どもに尋ねる。 「なぜミルフィーユなの?」 その子の答えは 「葉っぱがたくさん重なって生えているところが線香花火みたいで、 それがミルフィーユだと思ったから。」 あとからわかったのは、ミルフィーユというのは元々フランス語で、 Millesが「千の、たくさんの」という意味で、Feuillesが「葉、紙切れ」の意味。 mille-feuilleは「千枚ぐらいのたくさんの葉」が重なったという意味になるらしい。 日本人が持つ他国の言葉に対する言語感、そして他国の言葉が本来持っている意味。 その間には少し距離があいているように思う。 その間を行き来できるのが「まちくさ」という視点から生まれる体験なのかもしれない。 それを「まちくさ語」と名付けよう。まちくさ語を通してなら、 どんな国の人どうしでも容易にコミニケーションをとることが出来る。 なぜなら、まちくさという共通の価値観を持つことで、互いにその方向を向いていけるから。 近年、特に日本の言語はますます複雑に入り混じり、それが日本の特異な文化のひとつになっている。 まちくさという言語感は、それとはまた別の世界に位置するものなのかもしれない。 そんな可能性について、より深くへと探求していきたい。 #
by machikusa
| 2015-03-23 21:38
| 博士の思草
旅の途中「まちくさ」という視点を持って町を歩くなかで感じることがある。
それは、初めて訪れる町にもかかわらず、目にみえる景色すべてが懐かしく、 歩く道がいつも自分の住む町の路地にある一筋のように思えてしかたがない。 それは「まちくさ」という視点がある一定の制約を持ち、 自分はその制約に沿って町をみているからなのだろう。 言ってみれば、五感を通して外界から受け取る刺激や情報を制限し、 ほぼ無意識的に選択・選別している状態なのだ。 いや、選択させられているというほうが正確かもしれない。 例えば、着ぐるみを被り町を歩いていると想像してみよう。 着ぐるみは動きにくい、どうしても動きはぎこちなく、歩くスピードは いつもの半歩以上遅くなる。スローモーションのように動く。 また、その着ぐるみに小さく空いた穴から覗く外界の景色はどうだろう。 その小さな穴2つが唯一、外界と自分とをかろうじて繋ぎとめている。 その穴からみえる世界は、日常とは少しずれた別の世界のように映るだろう。 このように、「まちくさ」の視点を持つということは 「まちくさ」という着ぐるみを被っている、と言えばいいすぎだろうか。 ただ、この「まちくさ的」視点を、旅先だけでなく日常のさまざまな場面に転用することで、 誰もがその一つの制約に寄り添いながら、自分が現実だと思いこんでいる世界に もう一つの分かれ道を見いだし、そこを悠々と散歩することができるはずだ。 視点の制約こそが、凝り固まった日常や現実の壁を越えてゆくヒントになる。 #
by machikusa
| 2015-03-20 22:40
| 博士の思草
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by machikusa
| 2015-03-18 21:38
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by machikusa
| 2015-03-16 17:11
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